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『“暇が不安に感じる?”生き方をゆるめるという選択』

暇な女性

「なにもしていない時間」が、落ち着かなくなった日から



スマートフォンのない時間が不安になる。今はほとんどの人がそうなのではないでしょうか。

ぽっかりと空いた午後に、なにをしていいかわからなくなることも。

そして、なにもしていないことに罪悪感をおぼえて、

意味のありそうな予定や誰かの投稿を探してしまうことも。


そんな自分に気づくたびに、どこかで小さくため息がもれるのです。


昔は「暇」を喜べていたのに。

ただ歩いたり、ただ寝転んだりするだけの時間に、

特別な意味なんていらなかったはずなのに。


それがいつのまにか、「何もしていない時間」に耐えられなくなっている。


周りのスピードが速いから?

SNSで誰かの充実が見えるから?

“何者か”でいなきゃと、自分に言い聞かせているから?


理由はたぶん、どれも少しずつ当てはまっているのだと思います。


私たちは、いつからか「暇=無価値」という感覚を抱くようになりました。

やることがある=安心。

予定がある=ちゃんとしている。

忙しい=必要とされている。


それは一種の「安心材料」であり、

誰かと比べなくても、自分を保つための“手応え”なのかもしれません。


けれど、それって本当に“健やかさ”に近いものなのでしょうか。


忙しさを、充実という名前に置き換えてきた日々。

でも実のところ、その忙しさがなければ、

自分が空っぽになってしまいそうな怖さがあることに、

気づいている人も少なくないのではないでしょうか。


このコラムでは、

「暇=不安」と感じてしまうこの時代の心のしくみと、

そこから一歩離れて、“ゆるめて生きる”という選択について考えていきます。


なにかを始めるためじゃなく、

なにもしていない時間に、自分の輪郭を感じるような過ごし方。

そこには、数字や実績では測れない、

静かでやわらかな豊かさがあるかもしれません。




第1章|暇を埋め続ける社会──“何者かでいなきゃ”という焦燥



ふと空いた時間に、スマートフォンを取り出してしまう。

読みかけの本より、誰かの今日のストーリーが気になってしまう。

予定が入っていないカレンダーを見ると、なぜか落ち着かない。


そんな感覚が、いつのまにか当たり前になってきたのは、

いつ頃からだったでしょうか。


かつて“暇”という言葉は、どちらかといえば歓迎されるものでした。

「今日は時間があるから、ゆっくりできるね」

「予定がなくて、のんびりできる」

そんな会話のなかに、“暇=余裕”という感覚があったはずです。


でも今は、「暇だなあ」という言葉を口にすると、

どこか“退屈な人”だと思われてしまいそうな空気がある。

その背景には、現代社会が“暇を埋めること”に非常に長けてしまった構造があります。


私たちは、スマホのなかに無限の予定を持ち歩いています。

SNSで誰かの日常を見たり、情報をチェックしたり、動画を見続けたり。

ほんの少しの隙間時間も、何かで“埋める”ことができるようになったいま、

“暇な時間”は、意図しないとほとんど訪れなくなりました。


そして、それに慣れてしまうと、

本来リラックスできたはずの“空白”が、逆に不安の原因になってしまいます。


やることがあるから、自分は存在している。

何かに追われている方が、「ちゃんと生きている」気がする。

そういう感覚が、少しずつ、確実に、

私たちの行動や感情の土台をつくっているのかもしれません。


そこには、ある種の“焦り”があります。


たとえば、「何者かでいなきゃいけない」というプレッシャー。

現代は「わたしらしさ」や「個性」が強く求められる時代でもあります。

SNSを開けば、誰かが夢を叶えたり、活動を広げたり、成果を出したりしている様子が次々に流れてくる。

それを見て、「あの人はすごいなあ」と思うと同時に、

“自分は何をしているんだろう”という比較が、ふと忍び寄ってくるのです。


だからこそ、空白が怖い。

なにもしていない時間があると、

“取り残されているような感覚”に包まれてしまう。


この“取り残され不安”は、SNS世代に特有のものとも言われます。

他人の動きが常に可視化され、共有される中で、

自分だけが何も進んでいないように感じてしまう。

その感覚を打ち消すように、私たちは予定を詰め、忙しさを抱え込み、

「暇」をなるべく生まないように生活をデザインしてしまうのです。


でも、それって本当に、

わたしたちの“心の健康”につながっているのでしょうか。


多忙な毎日。

常に何かしていなければならないという空気。

そして、充実していないと認められないような風潮。


そのすべてが、わたしたちの「息をつく暇」を、少しずつ奪っていっているのかもしれません。


次の章では、そうした「忙しさ」が実際に私たちにとってどんな意味を持ち、

それが本当に“安心”をくれているのかを考えてみたいと思います。





第2章|忙しさは“安心材料”になりうるか?──満たされない充実感の中身




私たちは、「忙しい」という状態に、どこかで安心を感じているところがあります。

やることがある。頼られている。予定が埋まっている。

そんな状態にいると、「ちゃんとしている自分」になれた気がするのです。


けれど一方で、ふとした瞬間に襲ってくる疲労感や虚無感も、

同じくらいに抱えていたりしませんか。


忙しいはずなのに、どこか満たされていない。

やることをこなしているのに、なぜか心が置いてけぼりになる。

一日が終わったあと、「なにかしたはずなのに、何もしていない気がする」と思ってしまう。


そんな違和感を覚える日が増えているとしたら、

それは忙しさの中に、「意味」や「感情」が抜け落ちてしまっているからかもしれません。


忙しさには、いくつかの種類があります。


たとえば、「やらされている忙しさ」。

誰かに言われたタスクをこなすだけの日々。

そこにあるのは、こなすことへの義務感と、終わらせることへの焦り。

このタイプの忙しさは、たとえ成果を出していても、心の満足感がついてこないことが多いのです。


また、「意味を持てない忙しさ」もあります。

習慣になっているけれど、なぜそれを続けているのかがわからない。

やめても困らないのに、なんとなく続けている。

そんな忙しさは、無意識のうちに“存在確認”のような役割を果たしていたりします。


何かしていないと、自分が見えなくなるような気がする。

「生きている」と感じるために、動き続けている。

それはとても人間らしい感覚ですが、

それだけに、気づかないうちに心をすり減らしてしまうこともあるのです。


一方で、「意味のある忙しさ」も、たしかに存在します。

好きなことに夢中になっているときや、誰かのために動いているとき、

時間を忘れるような集中の中にいるとき。

そんな“気持ちのこもった忙しさ”は、むしろエネルギーをくれることがあります。


つまり、忙しさが良いか悪いかは、

量ではなく“質”で決まるのです。


たくさん予定があっても、心がちゃんと動いていれば、

その忙しさは満足感へとつながる。

けれど、たとえ軽いタスクであっても、

「やらなきゃ」「終わらせなきゃ」という気持ちばかりで動いていると、

終わったあとに虚しさが残ってしまう。


ここで大切なのは、

「忙しい=充実している」という等式が、必ずしも真実ではないということ。


むしろ、忙しさを充実と見せかけることで、

“本当は感じていたかった何か”をごまかしてしまうこともあるのです。


静けさに触れる時間。

意味のない笑い。

五感で味わうごはん。

頭を空っぽにする散歩。


そうした“何でもない時間”のなかにこそ、

私たちの内側がちゃんと整う場所があるのかもしれません。


けれど、それらは「何かをしている自分」に慣れてしまった心にとって、

最初は少し怖く感じるものです。


何もしていないと、不安になる。

それは、自分の価値を“生産性”や“動いていること”に預けてきたからかもしれません。


次の章では、

その不安をやさしくほどいていくための鍵として、

“予定のない時間”の価値について考えてみたいと思います。






第3章|予定のない時間に耐えられる人が、内側を育てている



カレンダーに予定が何も入っていない日。

その空白を見て、「ラッキー、ゆっくりしよう」と思える日もあれば、

「なんだか物足りない」と落ち着かなくなることもあります。


予定が埋まっていることに慣れすぎてしまうと、

ぽっかり空いた時間が、まるで“欠落”のように感じられてしまうことがあります。

でも、その空白にこそ、実は大切な余白があるのかもしれません。


何かをしていないと、自分の存在がぼやけてしまうような気がする。

けれどその感覚は、本当に“自分の輪郭”を失っているわけではなく、

ただ「静かになることに慣れていない」だけなのかもしれません。


私たちはふだん、多くの刺激のなかで生きています。

スマホを見れば誰かの暮らしが流れてきて、

街を歩けば音や光が目に飛び込んでくる。

予定や通知がなくても、世界は常に動いていて、

その中で自分だけが立ち止まっていると、

何かを取りこぼしているような感覚にさえなるのです。


でも、本当はその静けさの中にしか、

聞こえない音があるのではないでしょうか。


たとえば、自分の呼吸の音。

たとえば、心の奥にあった「本当はこうしたかった」という小さな声。

それらは、賑やかな日々の中では聞き逃してしまうものです。


予定が詰まっていない時間にこそ、

“内側に目を向ける”余裕が生まれます。


それは、なにかを考えなければならないという意味ではなく、

ただ「自分の感覚に気づく」ということ。


今日の空の色、

風のにおい、

朝起きたときの身体の重さ、

眠る前に感じた静けさ。


そういった五感の手ざわりを、忙しさの中ではなかなか感じ取れません。

けれど、予定のない時間の中では、それらがゆっくりと浮かび上がってきます。


この感覚の積み重ねが、心の深い部分を養っていくのだと思います。


目に見える成果や達成とは違って、

すぐに形にはならないかもしれません。

でも、自分の気分に気づける人は、

他人の気分にもやさしくなれます。

自分を休ませることができる人は、

他人の疲れにも敏感になれます。


予定のない時間は、心の筋肉をじんわりと鍛える時間でもあるのです。


なにかを“している”から価値があるのではなく、

なにかを“感じている”ことにも、ちゃんと意味がある。


そう信じられるようになると、

「空いている時間」が不安の種ではなく、

癒しや再生の“ベースキャンプ”のように感じられるようになっていきます。


今の社会では、予定のない時間に耐える力が

“静かな強さ”として必要になっているのかもしれません。


だからこそ、次の章では──

その空白を前提にした“がんばらない時間”の組み立て方について、

日々の生活の中でどう取り入れていけるかを考えてみたいと思います。




第3章|予定のない時間に耐えられる人が、内側を育てている



カレンダーに予定が何も入っていない日。

その空白を見て、「ラッキー、ゆっくりしよう」と思える日もあれば、

「なんだか物足りない」と落ち着かなくなることもあります。


予定が埋まっていることに慣れすぎてしまうと、

ぽっかり空いた時間が、まるで“欠落”のように感じられてしまうことがあります。

でも、その空白にこそ、実は大切な余白があるのかもしれません。


何かをしていないと、自分の存在がぼやけてしまうような気がする。

けれどその感覚は、本当に“自分の輪郭”を失っているわけではなく、

ただ「静かになることに慣れていない」だけなのかもしれません。


私たちはふだん、多くの刺激のなかで生きています。

スマホを見れば誰かの暮らしが流れてきて、

街を歩けば音や光が目に飛び込んでくる。

予定や通知がなくても、世界は常に動いていて、

その中で自分だけが立ち止まっていると、

何かを取りこぼしているような感覚にさえなるのです。


でも、本当はその静けさの中にしか、

聞こえない音があるのではないでしょうか。


たとえば、自分の呼吸の音。

たとえば、心の奥にあった「本当はこうしたかった」という小さな声。

それらは、賑やかな日々の中では聞き逃してしまうものです。


予定が詰まっていない時間にこそ、

“内側に目を向ける”余裕が生まれます。


それは、なにかを考えなければならないという意味ではなく、

ただ「自分の感覚に気づく」ということ。


今日の空の色、

風のにおい、

朝起きたときの身体の重さ、

眠る前に感じた静けさ。


そういった五感の手ざわりを、忙しさの中ではなかなか感じ取れません。

けれど、予定のない時間の中では、それらがゆっくりと浮かび上がってきます。


この感覚の積み重ねが、心の深い部分を養っていくのだと思います。


目に見える成果や達成とは違って、

すぐに形にはならないかもしれません。

でも、自分の気分に気づける人は、

他人の気分にもやさしくなれます。

自分を休ませることができる人は、

他人の疲れにも敏感になれます。


予定のない時間は、心の筋肉をじんわりと鍛える時間でもあるのです。


なにかを“している”から価値があるのではなく、

なにかを“感じている”ことにも、ちゃんと意味がある。


そう信じられるようになると、

「空いている時間」が不安の種ではなく、

癒しや再生の“ベースキャンプ”のように感じられるようになっていきます。


今の社会では、予定のない時間に耐える力が

“静かな強さ”として必要になっているのかもしれません。


だからこそ、次の章では──

その空白を前提にした“がんばらない時間”の組み立て方について、

日々の生活の中でどう取り入れていけるかを考えてみたいと思います。





第4章|「がんばらない時間」のために生活を組み直す




がんばっていないと、不安になる。

だから、休むことにもどこか「理由」が欲しくなる。


──そんなふうに思ってしまう日が、誰にでもあるかもしれません。


けれど本来、休むことに理由は必要ありません。

理由があるから休んでいい、のではなく、

休みたいから休んでいい。

疲れてなくても、何もしていなくても、

ただ“そうしたい気分”で選んだ静けさも、ちゃんと意味のある時間です。


でもそれを“自然に選べる”ようになるには、

ちょっとした準備が必要なこともあります。


それが、「がんばらない時間」のために生活を組み直す、という視点です。




無理を前提にしない、暮らしのリズム



私たちはつい、“限界までやる”ことを想定して

スケジュールや一日の流れを組み立ててしまいます。


「このくらいはできるはず」

「この予定も入れられるかもしれない」

そうやって余白を埋めていくうちに、

いつしか“何か起きたときの逃げ道”がなくなってしまっていることがあります。


だからこそ、「がんばらない日」が必要なのではなく、

“がんばらなくてもいい構造”が必要なのかもしれません。


たとえば、毎日のなかに「決めない時間」をあらかじめ用意しておくこと。

スマホを見ない時間、何もしない夕方、静かな朝の30分。

そういう“予定のない時間”を、あらかじめ“予定”として組み込んでおく。


その逆説的な工夫が、

「がんばらないこと」を後ろめたくしないための鍵になるのです。




「やる気」ではなく「ゆるさ」で回る日



人は、常に高いモチベーションでは生きていけません。

やる気の波が来ない日もあります。

むしろ、波がこない日のほうが、普通に多いかもしれません。


そんなときに、自分を奮い立たせて何かを詰め込むのではなく、

“気分に逆らわない”という判断を持てること。

それが、自分の調子を整えて生きていくために大切な力だと思います。


たとえば、掃除ができなかった日を「ダメな日」と思うのではなく、

「この部屋でだらしなくできてよかった」と捉えてみる。

食事が簡単なものだったときに、「これだけ?」ではなく

「このくらいがちょうどいい日だった」と思ってみる。


そうした“ゆるい受け止め方”は、

心の芯を削らずにすむ暮らし方でもあるのです。




外に見せるためじゃなく、内側に効く生活



SNSや他人との比較が当たり前になった現代では、

「ちゃんとしている感」が、見た目で評価されやすくなりました。

丁寧な暮らし、栄養バランスの取れた食事、時間管理のうまさ。


もちろん、そういう暮らし方はすばらしいし、美しい。

でも、それが誰かに“見せるため”に傾いてしまったとき、

本当に自分の心と身体に必要なケアから、

少しずつズレてしまうこともあります。


がんばらない時間とは、

そのズレを微調整する時間でもあります。


何もしていないけれど、満ちている。

うまくいっていないように見えるけれど、自分には合っている。


そういう感覚を大事にできる生活には、

他人には伝わりにくいけれど、

自分だけが知っている「手応え」があります。


それは、“目に見えない整い方”とも言えるかもしれません。



がんばらない時間のために生活を組み直すとは、

サボることでも、甘やかすことでもなく、

「調子のいいわたし」が生まれやすい場所を用意しておくということ。


次の章では、そうした生活の延長線上にある

“ゆるめるという生き方”そのものについて、

文化や価値観の視点から、やさしく掘り下げていきます。





第5章|生き方をゆるめるという選択──“何もしない”を肯定する文化へ



「何もしない」ことを、

どこかで“悪いこと”のように感じてしまう人は、少なくありません。


それはきっと、私たちが育ってきた社会の中に、

「動いていること」「頑張っていること」「何かを生み出していること」が

“いいこと”として強く評価されてきた背景があるからです。


忙しそうにしている人は、尊敬されやすく、

充実していそうな人は、羨望の対象になりやすい。

その一方で、ぼーっとしていたり、

のんびりと何もしていない人は、

どこか「さぼっている」「やる気がない」といった目で見られてしまうこともあります。


でも、それは本当に正しい価値観なのでしょうか。


ヨーロッパの国々では、1ヶ月以上のバカンスを取るのがあたりまえだったり、

「働きすぎていないか?」を定期的に確認する文化が根づいていたりします。

近年のアメリカでも、“セルフケア休暇”という考え方が広まり、

心や体の疲れをリセットする時間が、「権利」として認められはじめています。


一方、日本では“休む”ことにまだどこか引け目があり、

「迷惑をかけるかも」「サボってると思われるかも」と、

心のどこかでブレーキをかけてしまう人も多いのが現実です。


でも、ほんとうに必要なのは、

“がんばること”を手放す勇気よりも、

“がんばっていない自分”をそのまま受け入れるやわらかさなのかもしれません。


「何もしない」は、決して“価値がない”ことではありません。

むしろそれは、“内側を整える時間”です。


たとえば、体がケガをしたとき、

治すためには“動かさないこと”が一番の処方になります。

心も同じで、疲れているときや、傷ついているときに、

あえて動かさず、無理に刺激を与えないことが、

結果としてその人を立て直す力になるのです。


ゆるめるとは、逃げることでも、怠けることでもない。

必要なときに、自分の芯を守るための方法です。


そしてそれを“自分の生き方”として選べるようになると、

世界との関わり方にも、少しずつ変化が出てきます。


他人のペースに振り回されすぎなくなったり、

「ちゃんとしなきゃ」という思い込みがほどけたり、

何もしていない時間のなかで、ふと“満たされている”感覚に気づけたり。


それは、他人から見てどう見えるかではなく、

自分の内側が「安心しているかどうか」で判断する生き方。


効率や成果よりも、

“体感”や“感覚”を軸にした時間の使い方。


そんな文化や価値観が、これからの時代、

もう少しだけ広がっていってもいいのではないかと思うのです。


私たちは、何かを成し遂げなくても、

誰かの役に立っていなくても、

ただそこに在るだけで、じゅうぶん価値のある存在です。


その感覚を、

“ゆるめた生き方”のなかで思い出していけたなら。


きっと、少しずつ世界の見え方が変わっていくのではないでしょうか。




まとめ|暇を受け入れられることは、静かな強さ



「暇だと、なにか不安になる」

そんな感覚が、ふとよぎることは否定できません。


動いていないと落ち着かない。

予定がないと、自分が置いていかれる気がする。

何かをしていないと、存在があいまいになるような気がする。


でもそんなふうに感じてしまうのは、きっと私たちがそれだけ、

「頑張って生きること」に真剣だからなのだと思います。


だからこそ、なにもしていない時間にこそ見えてくるものがある。

誰のものでもない、自分の呼吸の音や、心のゆれや、体の声

それらを感じ取るには、空白が必要なのです。


「暇=無意味」ではなく、

「暇=再起動」だとしたら、

わたしたちは少しずつ、“ゆるめること”を選び直せるのではないでしょうか。


がんばることも大切。

でも、ゆるめることも、同じくらい大切です。

その両方があるからこそ、日々の自分がしなやかに整っていく。


このコラムが、

あなた自身の“空白を受け入れる勇気”のそばに、

そっと置いてもらえるものであったなら、とても嬉しく思います。


今日、少しだけゆるめてみる。

その選択は決して無駄ではないはず。


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