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『懐かしの“給食メニュー”はなぜこんなにも胸を打つのか?』

給食当番の踊る子供達


はじめに|「あの時間」は、いつもより心が静かだった



懐かしい匂いが、ふっと鼻先をくすぐるとき。

思いがけず聴いた音楽に、心がじんわりとあたたまるとき。

私たちは、ずっと忘れていたような記憶に、そっと触れることがあります。


それは、教室の窓から差し込む午後の光だったり、

トレイの上で湯気を立てていた、あの“コッペパン”の香りだったり。

何気ない日々の中にあった、なんでもないようで、かけがえのなかった「給食の時間」。


おいしさや栄養だけでは語りきれない、

静かに心に沁みこんでいる“あの頃の記憶”には、

私たちの心をほどいてくれるような、やさしさがあります。


このコラムでは、懐かしい給食メニューたちをめぐりながら、

“なぜこんなにも胸を打つのか”という問いを、

味覚だけでなく、感情や風景、そして「心の癒し」という視点から紐解いていきます。


もしかしたらそれは、

忙しい毎日にそっと寄り添う「小さな癒しの物語」なのかもしれません。


さあ、あなたの記憶のトレイを、そっとのぞいてみませんか?



目次





第1章|あのコッペパンが、ずっと記憶に残っている理由





1. 「なんでもないのに、忘れられない」──給食パンの存在感



給食のことを思い出そうとすると、なぜか一番に浮かぶのは「コッペパン」かもしれません。


特別おいしかったわけではないし、豪華だったわけでもない。

なのに、どうしてでしょう。ふと懐かしさに包まれるあの茶色のパンの存在感は、他のどのメニューよりも強く、記憶のなかに焼きついています。


真っ白なおぼんの上に、ぽんと置かれた楕円形のコッペパン。あの少しだけ甘い香り。ちょっとパサついた食感。パンの間に指で線を入れるように裂いて食べたり、牛乳と一緒に流し込んだり。毎日のように出てきたあのパンには、「当たり前」が詰まっていました。


味も形も、ごく普通だったはずなのに──。

それでも、どうしてこんなにも胸に残っているのか。


この章では、そんな「コッペパンと私たちの深い記憶」を、少しやわらかく、ひもといていきます。




2. コッペパンの正体とは? その形と味のひみつ



そもそも「コッペパン」って、どんなパンだったのでしょう?


あのパンには、決まった特徴があります。


  • 細長くて、真ん中がふっくら

  • 表面はほんのり茶色で、ツヤは控えめ

  • 甘さ控えめで、ちょっと粉っぽい食感

  • ジャムやバター、揚げパンなどのバリエーションがきく



実は、コッペパンという言葉は「クーペ(仏語:couper=切る)」から来ているといわれています。つまり、“切れ目を入れて具材をはさむパン”として、日本で独自に発展したものなんですね。


それがいつしか、「給食パン」といえばコレ、というくらいに定着しました。

素朴で、どんなおかずともケンカしない味。牛乳との相性もよく、飽きがこない。


そして何よりも、「どこにでもある」パンでした。

スーパーやコンビニで売っているわけではないのに、小学校の教室ではいつも見かける。

その“日常の中の非日常”っぽさが、心に深く残っているのかもしれません。




3. パンの山から配られる、あの“儀式”的時間



コッペパンの思い出は、味だけじゃありません。

配膳の時間に生まれる、あの独特の“空気感”こそが記憶を形づくっているように思います。


給食当番がパンのかごを運び、教室の後ろから前へと列をつくってパンが手渡されていく。

どこか静かで、でも心の中はざわついている。

“自分の番、まだかな”というそわそわ。

“あの子のパン、でかくない?”という密かなチェック。


そして、パンを受け取った瞬間──

なんともいえない満足感と安心感があったのを覚えています。


パンの大きさがほんの少し違うだけで、運命を感じてしまったり。

やけにふくらんでるパンに当たると、「今日はいい日かも」なんて思えたり。


たかがパン、されどパン。

あの時間は、子どもたちの中で小さなドラマが繰り広げられる舞台でもあったのです。




4. なぜか「当たり外れ」があると思っていた日



コッペパンは基本的に、ほぼ毎日同じ形、同じ味。

けれど、なぜか「今日はおいしかったな」という日と、「今日はパサパサだったな」という日があったような気がします。


実際に違いがあったのかどうかは、わかりません。

でも、その日の気分や、教室の空気、食べる順番によって、印象ががらりと変わっていたようにも思います。


  • 好きなおかずがある日は、パンもおいしく感じた

  • 牛乳がぬるい日は、パンも味気なく感じた

  • 友だちと笑いながら食べた日は、全部が“当たり”に思えた



つまり、コッペパンというシンプルな食べ物は、まわりの環境や気持ちのありようで、いくらでも味が変わってしまう“キャンバス”のような存在だったのかもしれません。


それが、記憶に強く残っている理由のひとつなのでしょう。




5. 子ども時代の感覚と、今の私をつなぐ“あのパンの記憶”



大人になってから、ふとした拍子にコッペパンを見かけることがあります。

パン屋さんで昔ながらのコッペパンを見つけたり、

観光地で“揚げパン風”のアレンジを見たり。


そのたびに、なんともいえない懐かしさがこみ上げてくるのです。


給食で出てきたコッペパンは、


  • 自分でお金を払わなくても手に入った、

  • 家のパンとは違う、

  • でも特別ではない──

    という、あいまいな“境界線”にいた食べ物でした。



その“中途半端さ”が、

「学校生活そのものの象徴」ともいえるかもしれません。


友だちと笑ったこと、失敗して泣いたこと。

黒板の文字、廊下の匂い、机の木の手ざわり──

全部が、あのパンの味といっしょに、心の中にしまわれています。


そして今、大人になって疲れたとき、

たまたまコンビニで見かけた「復刻版コッペパン」に手を伸ばしてしまう。


それは、癒しを求めている心が、子ども時代の“安心感”をもう一度味わいたくなっているからかもしれません。



第1章のまとめ|コッペパンは「何でもないけど、大事なもの」


コッペパンは、誰にでもある思い出の中に、静かに、でもしっかりと存在しています。


味も形も、派手じゃない。

それでも、


  • 手にしたときのあの感触

  • 牛乳と一緒に味わった記憶

  • 友だちと交わした会話の余韻



そういった“空気”をまるごと包んでくれる存在なのです。


だからこそ、今でも思い出すと、ちょっとだけ胸があたたかくなる。

それは、きっと私たちにとっての“やさしい記憶の癒し”なのではないでしょうか。





第2章|ソフトめんの謎と、汁にまみれるやさしさ



── 給食界の“ちょっと特別な日”




「今日はソフトめんの日!」──給食界の“ちょっと特別な日”



あの独特な“白くてやわらかいめん”の名前を聞くだけで、懐かしい気持ちになる方も多いのではないでしょうか。そう、ソフトめん。それは、給食の献立表にその文字を見つけた瞬間、なんとなくその日が特別に思えた、そんな存在でした。


「今日はソフトめんだよ!」

朝から友達と交わしたその一言に、少しだけ心が躍った記憶。ふだんはご飯やパンが中心の給食に、めん類が登場すること自体が珍しくて、なんだか特別感があったのです。


めんが登場する日は、どこか“ワクワク”と“お祭り”が混ざったような気分になって。白衣を着た配膳当番の子たちが、まだあたたかさを残した袋詰めのソフトめんをトレーに配っていく様子も、ちょっとしたイベントのようでした。




あの袋に包まれた“白くてやわらかい”めんの正体



ソフトめんとは、文字通り「やわらかい麺」のこと。うどんよりも細く、ラーメンよりも柔らかく、スパゲッティのような伸びもある、なんとも不思議な食感のめんでした。


銀色の袋に1人前ずつ入っていて、湯気がほんのりと透けるその姿。袋を開けると、ぬるっとした感じとふわっとした小麦の香りが立ちのぼってきます。

この「ちょっとぬるっとしてる感じ」も、ソフトめんならではの個性でした。


決して高級な素材ではないし、見た目も特別きれいなわけではない。なのに、不思議と心が落ち着く──まるで、子どものころにいつもそばにいた毛布のような存在感があるのです。




つけ麺?まぜ麺?スープの中で生きる“自由な存在”



ソフトめんといえば、必ず一緒に登場するのが「ミートソース」や「カレー風味のスープ」でした。


大人になった今でこそ、「麺とスープは別々で出すと食べにくいのでは?」なんて思ったりしますが、当時の私たちにとっては、それがごく自然なスタイル。


器の中で、袋から出したソフトめんをスープに浸す。

勢いよくほぐす。

時にはまぜすぎて、スープが飛び散る。


でもそれすらも、楽しい食事の一部だったように思います。


“正解のない食べ方”だったからこそ、どんなふうに食べてもよかった。

スープに全部沈める派、少しずつ浸して食べる派、先にスープを飲んでから麺を食べる派──。


「こうじゃなきゃいけない」がなかった給食の時間の中で、ソフトめんは、“自由にしていいよ”と、子どもたちにささやいてくれる存在だったのかもしれません。




ぐちゃぐちゃにしても許される、心がゆるむ食べ方



ソフトめんは、少しぐちゃぐちゃになっても怒られませんでした。

それどころか、汁がよく絡んでおいしくなる。


ぐちゃぐちゃにするという行為は、通常の食事マナーでは「よくないこと」とされていますが、給食のソフトめんだけは違いました。


お皿の中で混ぜすぎて、麺がちぎれようが、スープが跳ねようが、笑って食べられる。

子どもたちの「おいしい!」という声が教室中に響く。


そんな“ちょっとした無秩序”を許してくれる空間が、どれだけ心地よかったか──今思い出すと、少し胸があたたかくなる気がします。




なぜソフトめんは今でも“食べたくなる”のか



ソフトめんを思い出すたび、ただの味の記憶以上に、心の奥からじんわりと温かさがにじみ出てきます。


それはきっと、“やさしさ”の記憶。


袋から出すときのぬくもり、スープに浸すときの自由さ、ぐちゃぐちゃにしても笑える安心感。

誰からも否定されない、許される場所だった給食の時間。

そして、みんなで机を囲んで一緒に食べた、あの昼休み。


「また食べたいな」と思うのは、麺の味よりも、その空気感をもう一度味わいたいからなのかもしれません。


ソフトめんは、やさしく心をほぐしてくれる“汁のなかの癒し”だったのです。





第3章|ミルメークと粉末の魔法



── 味の記憶と、心にしみる“ちいさな変化”




1. 給食にだけ現れる“特別な牛乳”



どこにでもある牛乳なのに、その日だけは「おおっ」と声が出そうになる。

牛乳瓶のそばに、そっと添えられていた粉末の小袋──それがミルメークです。


透明のビニール袋の中には、ココア味やコーヒー味、たまにストロベリー味などが入っていて、その中身を牛乳瓶に注ぎ入れる。ストローでグルグルと混ぜると、まるで魔法がかかったように、真っ白な牛乳が甘く香るドリンクへと姿を変えるのです。


ほんの少し味が変わるだけ。

たったそれだけのことなのに、子どもたちの気分は一気に上がる。

給食の中でもミルメークは、まるで「ごほうび」や「サプライズ」のような存在でした。




2. 味の“変化”がくれる、小さなときめき



毎日の給食は、どこか決まりきったリズムの中にあります。

でもそのリズムの中に、不意に現れる“ちょっとした変化”は、思った以上に心を動かすもの。


ミルメークはまさに、そんな“変化の象徴”でした。


ストローで何度も混ぜながら、「もう混ざったかな?」「まだかな?」と確認する時間さえ、わくわくの連続だったのです。


そして最初のひとくち。

「いつもの牛乳と違う!」

その驚きが、午後の授業までほんのりと余韻を残してくれる。


“味が変わる”という、ほんの小さな出来事が、子どもの心にとっては“大きな彩り”だったのかもしれません。




3. ミルメークに託された“選ばれる喜び”



時にはミルメークが配られない日もありました。

もしくは、配布数に限りがあって「今日は○組だけ」なんていう日も。


そんなとき、「もらえる組」と「もらえない組」の間には、ちょっとしたざわめきが生まれます。

それは決してネガティブな空気ではなく、“今日は選ばれた!”という嬉しさと、“いいなぁ”という憧れが同居する、どこかほっこりとした雰囲気でした。


子どもにとって、「自分だけが持っている」「今日は特別」がどれほど心を満たしてくれたか──。

ミルメークは、そんな小さな“選ばれる喜び”を教えてくれる存在だったのです。




4. 「粉末」という遊び心と安心感



ミルメークだけでなく、給食には他にも粉末で味を変える“魔法”がいくつかありました。


・わかめごはんの素

・ふりかけ

・スープの素


どれもこれも、袋の中の粉をふりかけたり混ぜたりして、自分だけの味をつくる楽しさがありました。


粉末って、なんとなく“遊び心”をくすぐるものがありますよね。

その感覚は、大人になってもなぜか続いていて、インスタント味噌汁やスープの素を入れるときに、どこか懐かしく、そしてちょっとワクワクする気持ちがよみがえるのです。




5. ミルメークが思い出させてくれる“自由”



ミルメークのような“変化できるもの”が好きだったのは、子どもだからこそかもしれません。


決まったカリキュラム、決まった制服、決まったルールの中で過ごす毎日の中で、たった一杯の牛乳だけが「自分で味を変えていいよ」と言ってくれる。


その自由さに、どれほど心が救われていたのか。

「自由にしていいよ」と言ってくれる時間と味。

それこそが、ミルメークの癒しだったのかもしれません。





第4章|揚げパンは「ちょっと特別な日」の味だった



── 給食に潜んでいた、非日常のごほうび感覚




1. 揚げパンが登場する日は、なぜか朝からそわそわする



「今日の給食、揚げパンだって!」

そんな噂が朝の教室に流れると、子どもたちのテンションは一気に上がります。普段なら淡々と流れていく1日も、給食の時間に向かって期待が高まっていく。


揚げパンが出る日は、なぜか“ちょっと特別”。

他の献立とは違う、特別扱いされているような感じ。

その理由はきっと、あの香ばしさと甘さ、そして食べたときのボリューム感が、子どもたちの五感をまるごと刺激してくれるからでしょう。


外側はサクッ、中はふわっと。

一口食べるたびに、口の中に広がるきな粉やココア、シナモンの香り。

揚げパンには、ただの「パン」以上の“イベント性”があったのです。




2. きな粉派?ココア派? 揚げパンの“個性”と盛り上がり



揚げパンにはいくつかの味バリエーションがありました。

・定番のきな粉揚げパン

・ちょっと大人っぽいココア揚げパン

・地域によってはシナモン揚げパン砂糖まぶしタイプ


どれが好きか、友だちと語り合う時間もまた楽しいもの。

「やっぱりココアが一番!」

「きな粉しか勝たん!」

そんなふうに、それぞれの“推しパン”を語りながら過ごす昼休み。


これって、今で言う「スイーツ談義」や「推し活」と同じ構造かもしれません。

ただの給食の一品が、みんなの会話を盛り上げてくれるコンテンツになっていたのです。




3. 揚げパンににじむ“手間ひま”と温かみ



よくよく考えてみると、給食で揚げパンを出すのって、実はすごく手がかかるメニューですよね。パンを揚げるだけでも手間なのに、さらに味付けして、一つずつていねいに包んで配膳。


そこには、子どもたちにちょっとでも嬉しい時間を届けたいという、給食調理員さんたちの想いが込められていたのかもしれません。


揚げパンのあの温かさって、実は“油の熱”だけじゃない気がするんです。

「今日は頑張ったね」「たまには甘やかしてもいいよ」

そんな無言のメッセージが、パンのひと口に込められていたような──。




4. 手や口が汚れることさえ、なぜか嬉しかった



揚げパンといえば、どうしてもきな粉や砂糖がこぼれる

口のまわりが粉だらけになったり、制服にぽつぽつと跡がついたり。

それでもなぜか、誰もそれを気にしていない。


むしろ、「あー、ついちゃったね(笑)」と笑い合える余裕がそこにある。


きれいに食べることが求められがちな給食の場で、揚げパンは数少ない“少し乱れてもいい”メニュー。

だからこそ、子どもたちはよりリラックスして味わえていたのかもしれません。


それはまるで、**「汚れてもいい場所で、安心して自分を出せる」**という感覚に近いもの。




5. 揚げパンと“ちょっとしたごほうび”の記憶



人は、大人になると“ごほうび”を自分で買えるようになります。

でも、子どものころは違いました。

何かを頑張ったときに与えられる“ちょっといいもの”が、心の支えになる。


揚げパンには、そんな「ごほうび感」が自然に染み込んでいました。


・テストを頑張った後

・体育で全力を出した日

・ちょっと落ち込んでいた日の給食


そういうときに限って揚げパンが出ると、「誰かが見ててくれたのかも」なんて思ってしまう。

大人になっても、“ちょっと特別な何か”を求める心の原点は、きっとこの頃の揚げパンにあるのかもしれません。




第5章|給食に見る「小さな社会」と「人間模様」



── クラスという世界で繰り広げられる、日常のドラマ




1. 給食当番の使命感と、静かな連帯感



白衣に帽子、マスクをつけた給食当番。

あの姿に、どこかピリッとした緊張感を覚えた人も多いのではないでしょうか。


大人になって思い返すと、あれは社会のしくみの縮図だったのかもしれません。

分担、協力、責任、段取り──。

どれも大人になってから必要になる力です。


「今日はAさんが盛りつけで、Bさんが配膳ね」

「Cくんは牛乳を運んで」

そんな何気ない分担にも、自然とチームワークが生まれていました。


給食の時間は、ただ食べるだけの時間ではなかったんです。

みんなでつくって、みんなで整える時間だったのだと気づきます。




2. “人気メニュー争奪戦”に見る駆け引きと心理戦



コッペパンや揚げパンが余ったとき、起こるのが「じゃんけん大会」。

人数よりもパンの数が少ない──

そんな状況で巻き起こるのは、子どもたちの真剣勝負です。


・じゃんけんで勝ったら「ヒーロー」

・あえて辞退する子は「大人」扱い

・欲しがらないふりをして、実は狙ってる子も…


ここにあったのは、まさに人間模様

食べ物をめぐる心理戦、駆け引き、感情の交差があって、給食は小さなドラマの舞台でもありました。


あの時学んだ“空気を読む力”や“譲り合いの感覚”は、実は今の人間関係にもつながっているのかもしれません。




3. 友だちと過ごす“なんでもない日”の宝物感



給食は、誰とどこに座るかでテンションが変わることもありました。


「今日は〇〇ちゃんの隣がいいな」

「△△くん、また席一緒だね!」


そんな何気ない会話の積み重ねが、信頼関係を育てる時間でもありました。

ときには些細なことでケンカして、給食が気まずい日も。


でも、食事の時間って不思議なもので、どんなにギクシャクしても、

「牛乳いる?」なんて声かけひとつで、少し関係がほどけたりもする。


それがごはんを一緒に食べる力なのかもしれませんね。




4. 苦手なメニューと向き合う“自分との戦い”



給食には、自分にとっての“ラスボスメニュー”があった人も多いでしょう。


・ミルク煮

・酢の物

・レバー系のおかず…


食べたくない。でも食べなきゃいけない。

「一口だけでもがんばろう」

「水で流し込んじゃえ!」


そんなふうに、食と自分の間で必死に戦っていた時間も、今思えば愛おしい。


あのときの「ちょっとだけでもやってみる」という気持ちは、

きっと今でも、自分のどこかで生きているはずです。




5. 給食の“最後の片づけ”に宿る余韻とルール



食べ終わった後の片づけ──これもまた、小さな社会の縮図でした。


・残ったおかずをどうするか

・牛乳のキャップがちゃんと剥がれているか

・食器をていねいに戻せているか


それぞれが自分の役割を果たすことが、あの場の“平和”を保つポイントでした。


また、最後にみんなで「ごちそうさまでした」と言うことで、

1日がきれいにしめくくられていた気がします。


そこには、ルールを守ることの大切さと、協調する気持ちが込められていました。






第6章|“おいしい”だけじゃない、記憶の栞としての給食



── なぜ、あの味はこんなにも心に残っているのか




1. 思い出すのは「味」だけじゃない



給食の記憶は、「なにを食べたか」よりも「誰と」「どんなふうに」食べたか──

そんな情景の記憶と強く結びついていることに気づきます。


コッペパンの匂いとともによみがえるのは、

・窓から差し込む午後の日差し

・給食当番の白衣姿

・牛乳のキャップの音

・「ちょっとちょうだい」と言い合う声


こうした記憶の断片は、まるでページの隙間にそっと挟まれたしおりのように、

思いがけないタイミングで、ふっと心に触れてきます。




2. 失われていく風景だからこそ、鮮やかになる



学校を卒業すると、給食という制度から自然と離れていきます。

同じ時間にみんなで座って、同じものを食べる──

そんな暮らしは、大人になるとほとんどありません。


だからこそ、給食の記憶はより一層、「戻れない場所」としての輝きを帯びるのかもしれません。


時間がたつほどに懐かしくなって、

あのパンの味や牛乳の冷たさが、妙にリアルに思い出されたりする。


これはきっと、記憶のなかでだけ育ち続ける**“味の残像”**なのだと思います。




3. なぜ給食は「癒し」にもつながるのか?



コラム全体を通して考えてきた「癒し」と給食のつながり。

一見、遠いように思えるかもしれませんが──

実はとても本質的な関係があるのではないかと感じます。


・コッペパンのふんわり感に、心がほぐれる

・子ども時代の「安心して食べられた時間」を思い出す

・誰かと食卓を囲む記憶が、孤独をやわらげてくれる


それは、“安全基地”としての食の記憶なのかもしれません。


疲れた日、ふとあの味を思い出すだけで、

ほんの少し、気持ちが軽くなることがある。

それはきっと、給食がくれた「無意識の癒し」の力です。




4. 懐かしさは、今をちょっとやさしくしてくれる



昔のことを思い出すとき、私たちはただ過去に戻っているのではありません。

「今」を照らす光として、懐かしさを感じているのです。


「そういえば、あんなことがあったな」

「なんか笑っちゃうな」

「ちょっと、もう一回食べてみたいな」


そう思った瞬間、日常に少し余白ができる。

その余白こそが、忙しさに飲まれそうな心をやさしく包んでくれるのではないでしょうか。





5. まとめ|「あの頃の味」は、“心の深呼吸”になる



私たちは、毎日何かに追われて生きています。

時間に、人間関係に、自分の理想に──。

そんな日々の中で、ふと立ち止まりたくなる瞬間があるのではないでしょうか。


そして、何気なく思い出すのです。

あのコッペパンの香り。

温かくもなく、冷たくもなく、ちょうどよかった牛乳の感触。

みんなで机をくっつけて、並んで食べたあの時間。


それは決して特別な出来事じゃなかったのに、

なぜか「安心できた時間」として、心にやわらかく残っている。


この“思い出す”という行為そのものが、

今の私たちにとっての**「リラクゼーション」**なのかもしれません。


疲れが取れないとき、

気持ちがざわざわするとき、

ただ静かに目を閉じて、あの頃の給食を思い出してみる。


ほら、少し呼吸が深くなった気がしませんか?


コッペパンは、もう給食では出てこないかもしれません。

けれど、その味と時間の記憶は、

いつだって私たちの中に“癒し”として残っている。


それは、現代の忙しい大人たちにとっての“こころの湯たんぽ”のような存在。


懐かしさは、過去への旅ではありません。

むしろ、“今のあなたをやさしく緩める処方箋”として、

静かに、でも確かに、効いていくものなのです。



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